昭和48年05月01日 朝の御理解
御神訓 一、「まめなとも信心の油断をすな。」
一、「信心は本心の玉を磨くものぞや。」
まめなとも信心の油断すなと言う事は、毎日お参りをしておると言う様な事ではないと思うです。毎日お参りしておると言う事じゃない。信心は本心の玉を磨くものぞやと仰っている。信心は本心の玉を磨くと言う事が信心なのだから、いつも本心の玉を磨くという事がおろそかになってはならんと言う事だと思う。信心の油断をすな。参るとはそうにゃ参りござる。拝むとも芯から拝みなさる。だから、信心の油断が出来とらんかと言う事じゃないのです。信心の油断というのは、信心は本心の玉を磨くものぞや。
いわゆる心を磨くのですそれが信心。それも只磨くというてもです、教えに基づいての磨く。教えに基づいて磨くと言う事は、教えを受ける教えを聞くとか、教えが詳しゅうなるという事ではないです。これは教えの全てが本心の玉を磨く事。究極の所教えというのはそうです。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰る。万物の霊長だから、万物の霊長としての値打ちを作ると言う事なんです。
人間のいわば姿形は人間であっても、面だけは人間の面しておっても、心は鬼じゃろうか蛇じゃろうかと言うのがあるでしょう。人面獣心といった様な。人間の面こそしとるけれども心は獣心だと。それでは万物の霊長と如何に威張った所で、万物の霊長としての値打ちはない。万物の霊長としての値打ちを作ると言う事。それがいうなら信心。それを言葉を変えると、本心の玉を磨くという事。そんなら本心の玉を磨くと言う事は、どう言う事かというと、信心はというておられます。
本心の玉を磨くと言う事はね、信心がなからなければ本心の玉を磨くと言う事は出来んです。本当な意味に於いて磨いて行くと言う事は。そこでまめなとも信心の油断をすなと教えておられる事は此の頃、御無礼して一つもお参りが出来ん。そんなら毎日お参りが出来とる、お参り出来ておるから、油断をしとらんと言う事じゃないです。十日に一遍いや一月に何回かしかお参り出来んでもです。
本心を磨くと言う事にいつも精進、御教えを頂いてその御教えが、いつも本心の玉を磨いて行く事の修行が出来ておるなら、それの方がよっぽど有難い。毎日参りよって、毎日御理解頂きよっても、頂くだけで本心の玉を磨こうと言う事にならない。まめなとも信心の油断をすな。まめと言う事はまぁいうなら、健康の時健康だからと言うて、平穏無事だからと言うて今商売が順調にいきよるからと言うて、信心の油断をするなと、しっかり参って来いよという事じゃない。
どんなに商売が繁盛しておっても、どんなに健康であっても、今は家庭が円満であっても、本心の玉を磨くと言う事に、心が疎かになっており、その事が油断をしておる証拠です。本心の玉を磨こうと言う事の磨く喜びというか、是は磨く喜びという事は、是はね自分で頂くとじゃないです。是はね磨くと言う事が、天地の親神様の心に叶う証拠にはです、それを磨く材料にさせて貰うという修行させて貰うと、もう要らんと言うたっちゃ喜びは下さるです。それはねやっぱ神様が喜んで下さるからです。
ですからどげなふうにして磨きますかと。本心の玉ちゃどげなふうにして磨いたらいいですかと言う様な事を言う人がありますけれどもです。荒砥でごしごしこするち言う訳じゃなかっじゃもん。例えば一日のうちにでもです、自分の思う様にならぬ事。ありましょうが。信心させて頂いて自分の思う通りになる時は、もうそれこそ信心の油断をするなと仰るです。一番危ない時だと仰る。願いが願い通りに成就していくと言った様な時には。願っても願っても願いが成就しない。
右と願っても左、左と願っても右と言った様な時こそです。是は神様の願いが成就しておる時なんだ。例えばここに久富さんがおられますが、久富さんが願われる。願われる事が、久富さんの思いは成就しよらんけれども、天地の親神様が久富という人にかけておられる願いが成就しておる時です。そんなら天地の親神様の願いが成就すると言う事は、どう言う事かと言うとです。氏子の心が限りなく磨かれて行く事が、いうならば、天地の親神様の願いです。
氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのはね、氏子本心の玉を磨いてです、おかげを受けてくれよという事なんですよ。ですから所謂思う通りにならないという時程です、神様の願いが成就しておる時であるから、その事に対して有難うございますというお礼の心が生まれてこなければならん時であると同時に、そういう時に磨くのです。昨日は月末の御礼信話会が毎月あります。
終わりましてから、皆さん帰られるのを、そこまで送っていくと、塗板にまだ二十九日、三十日の掲示がしてあって、もう昨日は嘉朗さんが夫婦で参って来とりましたから、帰りに書いていくもんだと思うておった所が、書かんな帰った。受け持っておるわけですからねあの人が。ひよっと見た所が、昨日私が末永さんにここでお書物になっておる、和賀心時代を創るとか、又御理解感話集と言った様なあれを、そこに出しておきなさい。そしてあれを皆んなが求める人があったら。
原価で分けてあげるようにしたらいい。皆んなも喜ばれるだろうから出しときなさいと。出しとるもんと思うとった所が出してない。いうなら、私の言うことを聞いていない。私の思う様になっていない。そう言う様な事は沢山あるでしょうがお互い。そういう時にです、あんたどうして私が言う事を聞かんかと言うたら、もう磨く事にはならないのですよ。それは自分が受け持っとってから。
私は大体五月一日なら五月一日に、皆さんがお参りして来る時には、ちゃっと廊下の塗板に五月に入っての行事が、ずうっと書いてあらなければ私は好かんです。まぁだ先月の事どんがずうっと書いてあると言った様な事は、ふるふる好かんとです私は。だからふるふる好かん事を、私の信心を頂きに来ておる人達が受けもっておる事が、私が頼んである事が一つも実行されていない時に、どうして言う事聞かんかと言うたら磨く事にはならんとですよ。それはそげん言やあぁすんません。
忘れとりましたと言うてするかも知れません。けどもそれではね本心の玉を磨く事にはならんのです。そういう時に自分の本心の玉を、所謂自分の心を見極めさせて貰う。成程、言う事を聞かせきっていないのであり。私の痒い所に手の届くようにあって欲しいのだけれども、あられん所ども掻きよるというのですから。ああそん時に歯痒いと思うたらです、もう本心の玉を磨く事にならんのです。
その事を持ってです自分が分からせて頂くと言う事が、有難いと言う様な頂き方が、本心の玉を磨いていく事ですから、もう磨こうというそういう気になったら、もう一日のうちどれだけ磨く材料はあるか分からんです。一遍にちゃなかなか出来んです。いつも絶えず、ずっと磨とかにゃいかんです。昨日一昨日神戸の和田さんから、何かお供えを送って来た。開けてみた所がこんなに大きい、どこか南方にだけしかないと言う様な貝殻、貝です。それはもう見事な貝です。もう真っ青の緑色になった貝ですがね。
所が割れてるんです途中で。随分いろんなものを詰めてあったけれども割れとります。それを昨日、愛子がセメダインで継いでおりましたから。昨日此の頃からヨ-ロッパを旅行した人が、あちらから見事な貝を持ってきておる。それからそれと昨日一昨日送ったきたそれと。それが手紙が一日遅れで昨日来た和田さんから。それにはそれを入手した時が非常に、もうこれは非売品であった。
陳列の中に出してあった奴をです、無理を言うて分けて貰った。この貝でこういう大きな貝は、世界に幾つもなかろうと言う、向こうの人が言うたくらいに珍しい貝らしい。それをね船員さんですから船の中で十日間、ずうっと磨き続けたち言う。初めからあんなに綺麗じゃない。その磨き続けたからこそあんなに綺麗に、ぴかぴかに光るごとなっとる。それは素晴らしい大きな宝石のごたる感じですね。もうそれは見事なね、光り輝きしよるです。こんな大きな貝です。
磨かなったら光り輝きする様にならんです。それも絶えずそれこそうまずたゆまず磨く事に心掛けなければならん。そんならどげんして磨きますかと言うなら、例えば今私が、自分の思うようになっていない、私の言う事を聞いてない。そう言う様な事は茶飯事の中に沢山あるでしょう。そういう時に自分の思う様にならなんと言うて、情けながったり腹をたてたり、イライラしたりモヤモヤしたんでは、本心の玉を磨く事にはならんのです。はぁこう言う事で、神様が磨かせて下さるんだなぁと思うと心が豊かになる。
次に不思議に有難くなるから有難いです。何故かと言うとね、そういうふうに磨くという事に焦点を置いておるその心をです、天地の親神様が喜んで下さるんですね。ですから与えられるものは有難いとです。さぁその有難いがおかげの元になる。真に有難いというのは、自分の都合ようなった時だけが有難いというなら真に有難いのじゃない。それこそ神様が下さるのであろうかと思われるような有難さ。その有難さにおかげがあるのです。それが真に有難い。自分の思うようにならん。
自分の願うておる事が反対に、右が左になる。そういう時にです、これによって磨かせて頂くんだという頂き方をするとです、心が豊かになって、次には有難うなる。その有難うなるというのは、もう神様のお喜びがこちらへ反映してくる。映ってくるのである。いわば神様が下さる喜びなんです。本心の玉を磨いて行くと言う事はそう言う事なんですよ。だから、いくら参りよったっちゃ、拝みよったっちゃです、まめなとも信心の油断をすな。平穏無事であっても、どんなに健康であっても。
今商売が順調に行きよるからというてです、お参りでも止めるなと言う事ではなくてです。お参りは例えば止めておっても、参っておらんでもです、本心の玉を磨くと言う事に、どのような場合であってもすぐ直結するような問題が、本心の玉を磨くと言う事に直結するような頂き方が、絶えずある限りですおかげを受けます。しかもその心は光り輝きするようになります絶えず磨いておるのですから。
私共は中々信心の方を拝む事を、お参りをする事が疎遠になったり、疎かになったりしますとです。中々普通の凡人では改まる事も磨く事も、所謂疎遠になってしまいます。イライラするとが当たり前、是は腹立てるとが当たり前腹を立てん人がおると、返って横におって腹立てると言う事になってくる。人の分まで腹立ててやろうごとなってくる。愈々是では信心の油断をしておる証拠でしょうが。まめなとも信心の油断をすなと言う事はそう言う事なんです。
だから参った上にも参り拝んだ上にも拝ませて頂いて、それでも尚且つ迂闊にしておるのですから、本心の玉を磨くと言う事に。そこで私は昨夜も皆さんに聞いて頂いたんですけれども、一月なら一月
(途切れております)
昨日、伊万里の竹内先生達ご夫婦で、親子それから、市会議員の方のご長男という方と、一緒にお参りしてみえた。親先生来月昨日の言葉で、五月の月に入りますが五月の月はどういう心掛けで市政に当たったらよろしいうでしょうかというお伺いがあった。それで、こういう心掛けになりなさい。こういうふうな生き方で五月は進めておいでなさいと言うて、申しました事ですけれどもです。
それを心に掛けておくと、いつも磨いておかなければおられないのです。例えて言うと四月という月はそれこそ、お母様が亡くなられた。親を亡くするという程しの月でした。だから五月の月も、そういう一つの慎みと謙虚さというものがね、市政の上にも現れてくるような気持ちでという意味の事を申しました。ですから謙虚でおる事の為にはです、いつも地をを低うしておる。
場合によっては市長さんとしての権威を持ってから、もう頭から右にせろ、左にせろと言った様な生き方で行かねばならない月もあるでしょう。けれども五月の月だけは、まぁだお母様を亡くされて間もない月に入っていくのですから、そういう心持ちでおかげを頂いたらよかろうと、こういうふうに申しましたから、そんなら五月という月は、そういうふうになさるでしょう。なさる為にはいつも本心の玉を磨くと言う事に心掛けておかなければ出来るこっじゃありません。
ですから皆さんのように、毎朝朝の御祈念にこうやってお参りされるならです、どこと言う事はないです。それは私はここを皆さんに分かって貰いたいと力説する所がありますけれども。それは信心の程度によって、枝葉の所を受け止められる方がありましょう。受ける姿勢によって受けどころが違う。はぁ今日のお話は、ここの所が有難かった。ここの所が成程と思うたとこう、それぞれに違うのです。違ってもいいからその事が一日、私の一日を支えてくれる教えというふうに。
生き生きとしてくるならばです。もう是は必ず磨く事になります。朝の御理解だけは有難かったち言うちから、ノ-トしといてから、全部書き写しとったっちゃです、それを実行しないならなぁにもならんです。もうここ出る途端から油断しとる。参りよるから大丈夫と言う事じゃありませんです。参ると言う事も拝むと言う事も、本心の玉を磨くと言う事に繋がらなければならない。
その為に、お参りしておるんだという思い込みというか、そういう思い方が出来る。それこそ、まめなとも信心の油断をせんですむようなおかげを頂いて、磨いた上にも磨いていきよりますうちにです、光りが出てる。楽しゅうなってくる。磨く材料を探し求めてでも磨こうごつなってくる。探し求めんでも私共の前に、色々と磨く材料はいくらもあるわけです。それをおろそかにすると言う事は。
もう愈々信心の油断をしておる証拠ですから、信心に油断をせんようにして、愈々信心とは本心の玉を磨くものであるなと分からせて頂く。信心とはおかげを頂く事。信心とは拝む事、参る事と言う事では決してない。信心とは本心の玉を磨くものぞや。まめなとも信心の油断をすな。磨くと言う事に心を置いてないならば、もうあなたは信心の油断をしておると思うて、すぐ心を取り直して行く様な心掛けが大事ですよね。
どうぞ。